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2020/06/07

日記・②オランダの技師、デレーケが今の堤防を工事

現在は東京から大阪方面への交通は飛行機、新幹線、高速道路など色々ありますが、江戸時代は「東海道五十三次」が主要な交通網でしたが、全て陸上ではなく一ケ所だけ海路になっていたことをご存じでしょうか。

昔は岐阜から滋賀に抜けるには伊吹山脈などの難所があり、名古屋市熱田から三重県桑名市へ向かう海路の『七里の渡し』が主要な交通でしたが、27kmの外海を渡るには4時間もかかり干潮時には10里の海路になるため、大名や婦女子は危険を避け私が住んでいるところの近くに昔は船着き場があり、比較的短時間で行ける『三里の渡し』を利用したそうです。

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三里の渡しの船着き場跡

徳川家康が夏の陣で大阪へ出かけたときに利用したほか、十四代将軍家茂や吉良上野介や松尾芭蕉が通過中に作成した句碑塚があります。
伊勢湾台風で下宿したと書いたことが有りますが、そこは昔の宿場町の一角で障子だけで仕切った部屋が沢山ありましたが、現在は昔の館はほとんどありません。

船着き場から200mに渡り旅籠等があり、伊勢湾台風時に下宿していた家が右側の2階でしたが、現在は全て新しい家に建て替えられています。

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右の家が伊勢湾台風時に下宿していた家です。

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その左側の家の孔雀が飼ってあり羽を広げ歓迎してくれました。

この近くに松尾芭蕉碑があり次の説明書のように、この地に投宿し次のような句を詠まれたのです。

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水鶏鳥は絶滅動物で夏の季語のようです。また、あるブロ友さんから「松尾芭蕉」の「芭蕉」はバナナに似た多年草と教えて頂きました。

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芭蕉碑

江戸幕府が薩摩藩に命じて作った河川作業は現在のようなものではなく、明治政府がオランダのデレーケ技師を招き、現在のような木曽川、長良川、揖斐川に分離され、デレーケ像は現天皇が皇太子時代の昨年に訪れた閘門がある公園内に建ててあります。

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デレーケ像

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閘門

昔は日に100隻ほどの漁業、運搬船が利用したそうですが、現在は日に数隻のレジャーボートしか利用していないようです。
堤防の高さは愛知県側が高く、非常時には低い三重県側が切れる説もありましたが、愛知県側の木曽川より三重県側の長良川の方が60cmほど低く、そのための閘門が必要になったと言われております。
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コメント

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おはようございます

海に近い場所だから、陸路だけでなく海路を利用していたであろうことは
想像ができますが、ずいぶん時間がかかったものですね。
昔は個人でクジャクを飼っていた家もあったと知り驚いています。

こんにちは、

干潮になると遠回りが必要のため、大変だったようです。
昔、下宿していた対面の家に孔雀を飼っていたのには驚きました。
広い飼育場も必要で、つがいで居たようです。

No title

春駒さん、こんにちは。

松尾芭蕉碑について興味深く読ませていただきました。
この句は初めて知りました。
水鶏は夏の季語だそうなので、この句を詠んだのは夏だったのでしょうね。

歴史的にも重要な宿場町だったのでしょうね。
ありがとうございました。

こんにちは、

地方で読まれた句なので、あまり有名ではないかも知れません。
ほんとうは30㎡の土地に句碑があるのですが、木が雑草としていて薄く暗く、全体を写すと分からなくなるので碑だけをアップにしました。
名古屋の熱田、桑名間がほんとうの回路の当地は有名ではありませんが、他にも歴史上の人たちが通ったそうです。