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2019/09/30

災害・現在の台風の方が伊勢湾台風より強力 ⑤

伊勢湾台風による死者は5,000人以上、全壊家屋区は約36,000戸、流出家屋はおよそ4,700戸と言われる大惨事でした。

被害の原因は当日は高潮であったこともあり、ほとんどの堤防が決壊し犠牲者や全壊、流出家屋が続出し、海水が流れ込んでも犠牲者や家屋が倒壊するまでには至らず、堤防の決壊による被害が特徴ではなかったかと思われます。

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堤防はほとんど決壊した

しかし、死者や家屋の損傷がなかった地域でも仮堤防が造られ排水されるまでの期間は長い地域で3ケ月ぐらい要したのです。
もし強固な堤防があったら決壊しなく、犠牲は少ない台風だったと考えられます。

全壊や流出した地域以外では小屋のような建物は倒れてもも、浸水以外の被害は少なく電柱が倒壊するような台風ではなかったかと思います。
倒木も少なく浸水してない地域では停電もなく電車も動き、平野のため崖崩れの被害は全くなく、堤防の決壊による被害で潮の満ち引きで遠方の水位に変化があったほどです。

実は次の松等は伊勢湾台風で残った木々ですが、私が通って帰った旧道も本来なら画像のような松などが倒れずに残っておりましたが、台風後に道路を広げるために両端に生えていた松は全部切られてしまったのです。
というのは千葉のような風で折れた木々は少なかったのです。
画像は切られてしまった近くの木で、台風後に伐採をされなかったら見事な松林になっていたかも知れません。


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伊勢湾台風後に切られなかった松並木

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2019/09/29

災害・ 叔母の家に応援に行き人生のチョイス ④


叔母が名古屋市の南の方に住んでいたので、自宅に帰った2日後ぐらいには手伝いに行きました。
叔母の家は平屋で古い家屋でしたが床下浸水程度手済み、毎日畳を上げて干す作業や掃除が主な作業でした。

叔母の家は堤防から2キロメートルありますが床上浸水程度に対し、堤防の近くの人家は全滅し多くの人がなくなり海岸端の人家や住人の犠牲が大きかったといえます。

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貯木場から流れた材木

一週間もすると平穏になったので帰宅しようとすると、叔母が賄い等で働いている会社で働かないかの誘いいがあり、前の会社は堤防の締め切りもできず今なお再開のメドがなかったので面接を受け、健康診断も行い就職することにしました。

会社も大手で叔母の家から歩いて7分ぐらいの場所で1ケ月頃経過したときに、災害を受けた会社が間もなく再開するので、帰ってきて欲しいという手紙が実家を経由して届けられました。

決意して再就職したのに次から次へ手と友達の顔が浮かぶ、同じ釜の飯を食った仲間と会いたくなり、以前の会社に帰る方法を選んだのです。

一旦、郡上の家に戻り下宿先に着くと無事だったことを喜んでくれ、翌日からは会社に行きましたが懐かしい顔が一人増え、二人増えて昔の明るさが戻ってきました。

当時はボランティアは定着しておらず、救援物資らしきものが届いておりましたが、先輩が使えそうなものを取り、我々新人は使えそうなものはありませんでしたが、戦地に出征する兵士に送った国旗に寄せ書きが書いたものが残っておりました。

おそらく家では処分もできず、救援物資の中に入れたものと思いますが、出した人のことを考えると複雑な思いがして、今でもはっきり覚えておりますが当時の状況はそうしたものだったのでしょう。


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2019/09/28

災害・尾張平野は海や川だった ③

伊勢湾台風が来襲した東海地方の尾張平野について説明します。

今から3,000万年前は、岐阜市や国宝の犬山城付近までは木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が一つになった大きな川で所々に島があったようです。
例えば今の地名が残っておりますが、津島、長島、中島、飛島のように川とも海ともいえない所々に島があったのです。

江戸時代になると川の土砂が蓄積し平野になったが、木曽三川は相変わらず氾濫し続けたため、江戸幕府が薩摩藩を弱体化させる意味もあり河川の改修工事を命じたのです。
薩摩藩の家老の平田靱負は莫大な工事費用を使い犠牲者も多く出した責任をとり、完成した堤防で自害したと言われ、今でも4月頃になると鹿児島と地元が合同慰霊祭を行っています。
私が50歳頃に出入り業者より頂戴しチケットで、森繁久弥が平田役の演劇を名古屋の御園座で観たこともあり、強い印象が残っています。

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薩摩藩家老 平田靱負

しかし、現在の木曽三川は明治政府がオランダの技師のデレーケを招き、木曽川、長良川、揖斐川に分ける改修工事を行ったのです。
木曽川より長良川は川面が1メートル低いため、川の途中で「閘門」(こうもん)を造りスエズ運河のように扉で締め切り川面を調整して行き来したのですが、本来は荷物の運搬や漁師の往来の目的でしたがが、今ではレジャーボートや釣船用のために利用されております。
昨年に現天皇が皇太子時代にお忍びで見学に見えました。

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船頭平閘門

木曽川も長良川の下流には川の倍ぐらい河川敷があり、公園やバーベキュー広場などがあり市民の憩いの広場と大雨時対策として利用されておりますが、明治時代に100年後を予想したデレーケのお陰で川が溢れることは一度もありません・

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オランダの デレーケ技師・閘門の近くの公園に像があります

このように現在の名古屋市から西側の木曽三川までは堆積地で、ゼロメートル地帯ですが幸か不幸か伊勢湾台風の後に堤防の補強や、尾張西部の生活排水川には巨大な排水ポンプが設置されました。


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2019/09/27

災害・台風の翌々日に自衛隊の風呂 ②

私が住んでいた下宿先は少しだけ土地が高かったので、私が帰郷するまでは浸水には会いませんでした。
珍しかったのは台風の翌々日には、下宿していた近くに自衛隊の風呂が設営されたので利用させて貰いました。

その日は給料日だったので会社へ立ち寄り給料を貰い、夕方には自衛隊の風呂に入り、その翌日には郡上へ帰ることにしたので以後の事はあまり分りません。

伊勢湾台風は昔の古い海岸線の堤防と、高潮が重なり堤防の近くに住んでいた人の死者が多かったことや、名古屋港は木材の貯木場が多くあり流れた木材に衝突して命を落とした人が多かったようです。

在所に帰るにしても電車は浸水のため駅まで歩きましたが、江戸時代の堤防の跡を道路にしたところを何キロメートルも歩き、途中の道路は冠水しており靴を脱ぎ裸足で歩いたものです。

家へ着いたら大半の人も同じで、5,000人も亡くなった台風のため諦めていた家が多かったようです。
昔は現在のような通信手段が発達しておらず、唯一の固定電話も不通のため仕方のないことだったのでしょう。

私の両親も多くを語りませんでしたが、心の中では一安心したような表情を見せていました。


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2019/09/26

災害・伊勢湾台風 ①

今から60年前の今日(1959年)は東海地方を中心に「伊勢湾台風」が来襲し、5,000人以上の尊い生命が散りました。

私は当時は働いており、台風は住んでいた真上を通過したと思いますが、江戸時代の旅籠であった小学校の教頭先生の家に下宿しており、深夜になると先生と下宿人数人が2階に集まりローソクの灯とラジオを頼りに台風が通過するのを待っておりました。

下宿生の一人が「先生、この家が倒れないですか?」と質問すると先生は、「バカ言え、家が倒れるなら地域場の家は全滅するぜ」の力強い言葉に安心したものです。

昔のままの旅籠は柱も梁も太く頑丈な建物でしたが、しかし強い風が吹くと揺れていることが解るほどでした。

午前0時ごろを過ぎると風も収まり雨漏りもないことを確認し、それぞれの部屋に戻って寝ることにしました。

しかし、当時は大潮で沿岸の堤防は決壊し、尾張西部の排水川の2級河川の排水ポンプが容量以上の水を排水不能で大きな被害が発生しましたが、私が住んでいたころは2階でもあったし水はつきませんでした。

翌日に先生が勤務先の学校の点検に出かけ帰って見えましたが、バイクの荷台には大きなフナが何匹も捕獲して積まれており、皆で鍋にして食べました。
先生の話によると学校付近は床下程度の浸水があり、水は間もなくこちらにもやってくるだろうと見通しが述べられました。



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2019/09/25

マンション・ 最後に、(15)


まだ、書くことはいっぱいありますが、都合により本日で一区切りを致します。
というのも、昭和34年(1959)9月26日に5,000人以上の人が亡くなった伊勢湾台風があり、60年前のことではありますが、記憶に残っているのは私たちの年代以上の方々で、私の記憶に残っているうちに書き残す義務があるような気がしています。

「マンション」のカテで、後日、大規模修繕工事の委員長に就任した時の内容を書き足らなかった分を綴ってみようと思っています。

したがって、本日は2日分を書きますので若干長文になります。


管理費が安くなった分は返して欲しい!!

管理会社と契約解除して自主的管理に踏み切った定期総会で、一部の住戸から「剰余金は皆に返すのが筋ではないのか」の強い意見が出されたことがありました。

役員会としては、将来のために剰余金は修繕積立金に廻す考えだったので、即座に返答をすることを避け、総会後の理事会で検討しましたが発言者の気持ちは解るが将来のことを考えた方が良いという意見が大半を占めました。

そこで、次回から定期総会に出席した住戸に対して、2,000円の商品券を渡すことで一致したのです。

当方の管理組合の総会への出席は特別に良いとは言えませんが、剰余金の一部を商品券で変換することで少しは良くなったと思います。

不満がある住戸があるかも知れませんが、管理費は居室の面積割りになっているため一律の返還も公平ではありませんが、出欠により返還の有無にする方が良い方法ではないかと考えられます。


役員を退く

前々から自主的管理に移行し、管理組合の運営が一段落したら役員退く予定をしておりました。
理由はあまりにも走り過ぎたため疲れたこと、達成感を感じ次の目標がなくなったこと、個人的には私のような個性の強い者が役員に長く就任することのデメリットも考えたからです。

以後の理事会の構成も立候補、不足分は未就任住戸の抽選により決める細則も決め、最後の仕事として若干の役員手当を総会で採決するよう理事会に計ったことがあります。

しかし、大半の理事からは「ボランティアが当然」とか、色々な意見により纏まる様子はありませんでした。
例えば私が良く話題にするグラウンド・ゴルフのような趣味の団体でも1,000円程度の食事会と、担当するメンバーに降雨時の中止を連絡する電話代を役員に支払っており、管理組合は義務で役員に就任する義務があるため、多少の手当は当たり前だと前々から思っておりました。

最後は役員の長老の方の説得で一定の手当が決まり、細則として提案し総会でも可決されました。
おそらく色々な経過があり決まったということを知っている人は一部の旧役員でしょう。

現在は理事長、副理事長、会計等の役職により支給し、班長にも支払っております。
難産の末に決まったことも知らないで、役員手当を受け取っている人が大半でしょう。

以上で、簡単にまとめてみましたが、この何倍かも書きたいことはあります。
役員を止めた数年後には大規模修繕工事が始まり、次回はその委員長になったことについて書けたらと思っています。


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2019/09/24

マンション・管理会社と決別 (14-2)


こちらも相手側を追及する資料を充分に揃え、管理会社ではなく販売会社の社長がマンションを訪れ交渉の日がやってきました。

先方が選んだのはウィクデーのため、管理組合の役員は休むことが出来ないらしく、理事長に一任することで私が休暇をとって話し合いに臨みました。

今まで書いてきたように問題点を(まだ半分ぐらいの問題点しか書いていませんが)先方の社長に付きつけました。
また、小口現金がこちらに入るのは3ケ月後だということも主張しました。

社長は遺憾の意を示し何とか管理の継続を話題にしたいようでしたが、私はピッシャリとシャッターを閉め聞く耳を持たなかったので、先方も「分かりました」と返事をするしかなかったようです。

実は販売会社が手掛けたマンションでは最大で、シンボル的な建物だっただけに残念な気持ちが痛いほどわかりました。

正式な解約は2ケ月後ぐらいにして、一切の事務関係の引継ぎは管理組合が指定の「合人社」へ引き渡すことを依頼し、清掃員は管理組合に全員引き受け管理員は、1名は引き受け他の1名は、とても一緒に仕事を行えるタイプの人ではなかったのでお断りしました。

当時の資料をチェックしたら管理委託費は年間に300万円ぐらい得し、33年後には1億円以上のメリットがあることを総会で説明しましたが、実際はエレベタータ等の保守費の引き下げ、携帯電話基地局設置料などの収入増で予定の数倍もの剰余金を修繕積立金に繰り入れることができています。

マンションによっては最初の大規模修繕工事から予算が不足のため、各住戸が負担を強いられる場合もあるようてすが、当管理組合では自主的管理により所定の大規模修繕工事を行っても、今から20年前後は管理費や修繕積立金の値上げが不要という計算になっています。

予想していたより剰余金(修繕積立金へ転嫁)が多くなったのは、管理会社との解約による徹底した合理化、エレベータ保守料のように管理会社に不要な金を取られていた、携帯電話基地局の設置費、火災保険会社の契約見直し、古紙やアルミ缶の売却等々の細かいものまで管理組合の努力の結果だと思っています。

実は管理会社と契約を解約して間もなくすると、マンションを販売した会社が倒産した話を聞きました。
当時はバブル時代も終わり銀行管理になった噂を聞いたことがありますが、実情は分かりません。


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2019/09/23

マンション・管理会社と決別 (14-1)

理事会では管理会社と契約を解除し、自主管理に移行しようという声が大きくなってきました。
しかし、前にも書いたように、金銭管理だけは他の管理会社に委託することを主張した結果、皆さんの同意が寄せられました。

明日にも解約する訳にもゆかず、一定の期間をおいて解約の方向をきめましたが、半年先だったのか数カ月後だったのか記憶があいまいです。

当マンションはファミリーマンションのため高級感はなくても、基本的な設計・施工はしっかり考慮されていても、防犯等については販売会社との請負金額が合わなかったのか、防犯面などでは抜け穴だらけの建物でしたが共用廊下も広く使いやすいマンションです。

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共用廊下幅員(最大) 178mm

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共用廊下幅員(最小) 137cm(メーターボックス等48mm)


管理会社に対しては積もる不満と、それ以上に我慢できなかったことは、当方が必要な物品を立て替えて購入しても私の懐に入るのは3ケ月後になり、何でも管理会社の社員で決済することが出来ず親会社の販売会社承認が必要のようで、こんな会社とは早急に手を切るべきと思ったほどです。

準備期間のうちに金銭を管理する会社と折衝したり、エレベータの保守料が高く感じたので、どこのエレベータでも保守を行うSECとかの会社に見積もりの折衝を始めたら、施工と保守を行っていた東芝が面会にやってきました。

簡単に言えば1台のエレベータの保守費が7万円とすると管理会社は伝票を動かすだけで、管理組合には3万円上乗せし10万円の請求書が届くのが業界の常識なのでしょう。

これはエレベータだけでなく消防設備点検、水槽清掃などあらゆる項目も同じで、どこの管理組合も管理会社にいたしいる場合は避けられ避けられない問題で、年間のトータルすると大きな金額になるはずです。


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2019/09/22

マンション・共用廊下を乗り越えて侵入 (12)


マンションに入るには共同玄関を始め、何か所かに出入り口があります。
現在では全ての出入り口に防犯カメラが付けられているので、若し、刑事的なトラブルに巻き込まれても防犯カメラで外出していたのか、館内にいたのかアリバイが解ります。

まあ、冗談はそのくらいにして、入居時は共同玄関から入れなくても駐車場側に回り、共用廊下側から乗り越えて入ることが出来たのです。

特にセールスマンが乗り越えて入り、エレベータを使えばどこの住戸へ訪問することが出来たのです。

そこで、理事会で検討し共用廊下に格子を取り付け入れないようにしたものです。

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大手の設計・施工会社で、多くのマンションを取り扱っている会社が不備な施工を分からないのか、他のマンションでは何の問題にも成らなかったのか不思議な出来事です。


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2019/09/21

マンション・携帯電話基地局設置を巡って (13)


ある時、携帯電話会社から階段の上部に、「アンテナ」設置の申し入れがありました。
企業には電波障害による被害等について問い合わせ、次回の定期総会に設置を認める提案をすることに決めました。

当時は現在と違って「ガラ系」普及する時代で、携帯会社もアンテナが設置できる高い建物の奪い合いの時代であったと思います。

ところが定期総会では一部の人から「電波障害による人体への影響」の理由で絶対反対の声が出されました。

携帯会社の安全性の説明があっても「聞き耳持たず」の態度をつ貫き時間だけが経過するだけでした。

議論も煮詰まったころ、私が反対意見を述べる人に対し「人体被害を心配されるなら、あなたも家族の方も携帯は使っていらっしゃらないのですね。」と質問してみました。

「いえ、私も家族も使っています・・・・」

あとは参加者から怒号が飛び、強い反対意見を述べていた人は顔を伏せるだけでした。

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1社当たりの年間使用料は約100万円で、その後も1社の設置を認め、管理組合への収入も増え、この地域の通信使用に大きな役割れを果たしていることになっています。


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